坐骨神経痛の痛みやシビレ、とカレーライス
- ryoutakuan
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今や誰も疑う余地のない国民食と言っていいカレーライス。
「俺、カレー嫌いなんだよね」
って人、会った事ないのではありませんか?
もちろん、私も大好きです。
ただ、こういう図体してますが実は辛口が苦手でして・・・ココ壱さんでは甘口を注文しちゃいます。けど、ホント美味しいっすよね。

けど、どうです?
例えば、カレーライスを食べたことがない海外からの留学生にカレーライスを勧める時、何と言ってお勧めします?
カレーライスの美味しさを、言葉でどう伝えますか?

かなり難しいと思うんですよね。
じゃ、同じ日本人同士の場合だとしましょう。
少なくとも、カレーライスというメニューに対する共通の認識はありますよね。
そんな中、友人から
「あそこのカレー、めっちゃ美味いからいっぺん食べてみ」
と勧められたとして、どんな味を想像します?
お友達の言う「めっちゃ美味い」とアナタが思う「めっちゃ美味い」って、果たして同じでしょうか?
「(そっか、そんなに美味いんなら一度行ってみよう)」
と行ったとしましょう。で、食べました。
すると、そこのお店の売りは超辛口。激辛です。
ココ壱さんで甘口しか注文しない自分とすると、ひと口食べただけで
「うわぁ、この後どうしよう。ここでやめたらお店に申し訳ないよなぁ」
なんて考えます。美味い美味くないのレベルじゃなく、食べられる食べられないのレベルです。
けど、その友人にとってはここのカレーは「めっちゃ美味い」んです。
辛さがたまんないんでしょうね。

「痛い」というのも「カレーライスが美味い」というのに似ていると思うんです。
同じ日本語を使う日本人ですから「痛い」という言葉に対する共通の認識はあります。
突き指や打ち身や擦り傷でも「痛い」も大体わかります。
けど、経験したことが無い「痛い」はどうでしょうか?

例えばお友達から
「私、坐骨神経痛で痛いんです」
と言われたとしましょう。
経験したことのない人には、「痛いんだろうなぁ」という事は理解出来ても、「どういう痛み」なのかは実感できません。
「カレーライスって美味しいのよ」と言われた海外からの留学生みたいなものじゃないでしょうか。
ではもし、坐骨神経痛を経験したことがある人ならどうでしょう?
果たして、お友達が訴える
「私、坐骨神経痛で痛いんです」
と同じ「痛い」を想像出来るでしょうか?
ご自身が経験した「坐骨神経痛」と、お友達が困っている「坐骨神経痛」が全く同じものかどうか?これって誰にも分らない「感覚」だと思うんです。
お友達が思う「カレーライスの美味さ」と、自分が思う「カレーライスの美味さ」が違うように。
それこそ「シビレ」です。

「私、坐骨神経痛でシビレがあるんです」
これまで、何百回、何千回とお聞きした言葉です。
違う表現だと「ビリビリ」「ビ――ン!」「チクチク」「チカッ、チカッ」とか。
で、多くの方がおっしゃられるのが
「電気が走るような感覚」
です。で、どういうわけか、そういう方々は
「電気が走る」=「神経痛」=「神経が痛みを起している」
という共通認識を持っていらっしゃるんです。

ここでまた、ひねくれ者の自分が頭をもたげてきます。
「それって誰か計測したの?」と。

患者様が「あ痛たたた」と言っている時に、テスターなどの計測器で痛みが発生している部分を誰か測ったの?と。それこそ、
「腰椎の4番5番で神経が圧迫されて」
というのであれば、その痛みの発生源である4番5番の所で何らかの電気信号が生れているの?と。

不勉強なためか、そういったデータにお目にかかったことはありません。
「ビリビリ」「ビ――ン!」「チクチク」「チカッ、チカッ」等々は、それぞれの方が思っている「カレーライスの美味さ」なんだと思います。
要は「感覚」です。

その「感覚」の完全な共感は無理だと思うんです。
ただ、「どんな感覚なんだろうな」と想像することは可能です。
カレーライスだと、「こんな美味さかなぁ」です。
例えば、
「玉ねぎをじっくり炒めてるのかなぁ」とか
「お肉に赤ワインとか沁み込ませてるのかなぁ」とか
「ウスターソースとか混ぜてるのかなぁ」とか
「しょうゆで和風の風味を加えてるのかぁ」とか、とかとかとか・・・

「ビリビリ」「ビ――ン!」「チクチク」「チカッ、チカッ」がその方独自の「感覚」だとして。その「感覚」って
「これとこれが合わさると、同じような感覚が起きないかなぁ」
「あれが不足すると、そういう感覚になるんじゃないかなぁ」とか
「長い間こういう条件が重なると、そういう感覚が起きても不思議じゃないよなぁ」と、想像することは出来るのではないかと思うんです。

坐骨神経痛で感じる「ビリビリ」「ビ――ン!」「チクチク」「チカッ、チカッ」は電気が走っている状態だ=「電気が走る」=「神経痛」=「神経が痛みを起している」
と短絡的に考えるのではなく、その場所でそういう「感覚」が起きる原因を想像することが大切なんじゃないでしょうか?
その「原因」と「坐骨神経痛という症状」の間に、合理的なストーリーが描けるのであれば、そのストーリーをさかのぼることが施術ではないかと考えています。
で、そのストーリーを構成するのは、「骨盤が歪んで神経が圧迫され」とか「背骨が歪んで」ではなく、身体に携わる仕事をしている者である限り、解剖学や生理学や運動学と各人が育んできた「常識」でなければならないと思っています。





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